ピープル
#わたしたちの憧れアイコン

《4月20日『わたしたちが27歳だったころ』書籍発売》【北川悦吏子】まだ何者でもなかった頃の作曲家の夢と脚本家になるきっかけ

4月20日、書籍『わたしたちが27歳だったころ』の発売が決定。刊行を記念して、書籍に収録されているインタビューの一部を特別公開!

わたしが27歳だったころ。

withの人気連載が1冊の書籍に! 
様々な分野で活躍する大人の女性たちにも、私たちと同じ、27歳のときがありました。「わたしが27歳だったころ」と題して、彼女たちが当時、何に悩み、どんな努力をしてきたのかを伺ってきました。センパイたちの経験から、素敵な大人に近づくヒントが見つかるはず!

脚本家・映画監督 北川悦吏子さん

先日、Twitterで、4ヵ月前に医師から適応障害だと診断されたことを告白した北川さん。今はすっかり完治した。昨年秋に最愛の父を亡くし、21年1月クールのドラマ『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』では、自身と娘との関係性もドラマに投影させた。

30代で「ラブストーリーの神様」と呼ばれるようになるまでに北川さんがたどった20代の“夜明け前”。たくさんの痛みを通過した今は、心と身体に優しい生き方を探るように。
pattern_1
【PROFILE】きたがわ・えりこ●1961年岐阜県生まれ。脚本家・映画監督。1992年“シスターフッド”を描いたドラマ『素顔のままで』で連ドラデビュー。『愛していると言ってくれ』『ロングバケーション』『ビューティフルライフ』『オレンジデイズ』など多くの大ヒット作品を世に送り出し、「ラブストーリーの神様」と呼ばれる。

最近では、NHK連続テレビ小説『半分、青い。』、『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』など。今with読者にお勧めしたい過去の名作は、『愛していると言ってくれ』。「人が人と強烈に惹かれ合う、その純粋な気持ちを描いているから」とのこと。

まだ何者でもなく、とにかくドラマの企画書を売り込んでいた時代

16歳の時に、主治医の先生から「このままでは子供が産めないかも」と言われたことがあります。自分の子供が持てないかもしれないことに、そんなに悲しいという気持ちはなかった私の隣で、母は泣いていました。

私、将来は作曲家になりたいと思っていたんです。病気を持った娘を自分のそばに置いておきたがった親を納得させるためにも、いい大学に合格しなければと思い、高校卒業後は、早稲田大学に進学しました。

しかし大学3年の時に、パタンと、作曲家の夢が潰(つい)えた瞬間が。当時はユーミンこと松任谷由実さんがたくさん素敵な曲を発表していて、ユーミンの音楽に浸りながら、気づいたんです。「私にはこんな才能はない」と。なにも、天才ユーミンと比べる必要はなかったんじゃないかと今は思うけれど、当時は切実でした。

少しでも音楽の仕事に関わりたいと、就活して採用された広告代理店は、今でいうブラック企業。あまりにキツくて半年で退社しました。でもそれだって、42社受けて、やっと受かった2社のうちの1つです。

次の年には、第二新卒として運よく制作会社に合格することができましたが、合格者は約600人中6人で、私以外は全員男性。しかも揃いも揃って映画オタクです。新人は、テレビ局にドラマの企画を通すことが仕事だったので、とにかく企画案を持っていけば、採用される可能性があると思って、必死で頑張りました。
次のページ>>なんとか別の道はないかと、脚本家になることを思いついた
26 件

キーワード

急上昇キーワード

新着記事

あなたへのおすすめ